2010年12月24日金曜日
0033 存在と無
「存在」の反対概念は「無」ではない。
「存在」の反対概念は「非存在」である。
「無」とは「存在」すべきものの、あるいは、存在していたものの「不在」である。
簡単に言ってしまえば
「彼はいま不在です。つい今し方までここにいたのですが・・・」
というのが「彼の不在」
あるいは
「無」としての「彼の存在」である。
したがって
「無」は「非存在」ではないし
何もかもが灰燼に帰したときに
「無」と表現されるような状況
(それはカオスあるいはカタストロフィーのように感じられる)
ではない。
僕の場合で言うなら
パルは不在なのだ
パルは消失したわけではない。
2008年12月23日(火)
午後1時50分
それまでこの世に存在した愛犬パルが旅立った。
だからパルはいまここにはいない。
それでもなおパルはここにいる。
それは僕らの個人的事実である。
だから、
個人的感慨としては
「無」とは「存在の残像」のようなものだ。
あるいは「存在」の「影」とでも表現すべきなのかも知れない。
そうした意味において
個人的な「無」とは
個人的な「想い出」
あるいは
「忘れ得ぬヴィジョン」
なのかもしれない。
無とは失われたものを思う心なのだ。
2010年12月17日金曜日
0032 村上春樹的世界観
世界の終り
村上春樹の長編小説に「ダンス・ダンス・ダンス」という作品があるけれど、いわゆる「僕シリーズ」の最後の作品にあたる。
主人公の「僕」が同一人物と考えられることから処女長編「風の歌を聴け」からこの作品までがシリーズと見なされている。
いや、少なくとも僕はそう考えている。
とても好きな作品群で、すべて初版刊行時に読み、その後も何度も読み返している。20回以上読み返している作品もあるほどだ。
そんなことで、そのあとの作品群ないしは単独作品には当初大いなる違和感を覚え、拒絶症状まで出そうになったほどだった。
しかし、村上春樹の「世界観」のレベルで捉えると、後期の作品もまた連続性を保っていることに気づいたのだった。
それは、
この世界ではどんなことでも起こりうるし、あらゆるものが繋がっている。
ということだ。
なぜならば、この世界は私の極めて個人的な世界だからだ。
ウィトゲンシュタインの言葉を借りるならば「私が私の世界である」(ミクロコスモス)ということになるのだろうか。
だから「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で「世界が終わる」ということの意味は、「主人公の世界の終わり」を指し示していた。
僕自身もまったく同じ考えに行き着いていて、そのように確信している。
世界の終わりとは「私の世界の終わり」のことであって、私が死んでも世界は続いてゆく、なにごともなかったかのように。
そのような世界観を持った上で読み直すと、見かけや仕掛けは異なるかも知れないけれど後期作品群とりわけ「1Q84」もまたおなじことを語り直していることに気づくのだ。
2010年12月15日水曜日
0031 知覚
われわれは見ようと意識しないものは見ない。「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。
無意識は我々の内なる大海である。その海面に波立つものが我々が現実と呼ぶところのものであり、上空からそれを見つめているのが我々が自身の意識として認識するところのものである。
海面下に何が隠され潜んでいるのか、知るすべはない。
まず『人間』があり、そして『意識』があり、しかるのちに『無意識』があるのではない。そうではなくて、まったく反対に、まず『無意識』があり『意識』が生成され『知覚』が成功し『認識』が構成され、そして初めて『人間』が現れるのだ。
以上、深夜のインスピレーションを書き留める。
2010年12月10日金曜日
0030 Oh My Love
Oh My Love
Oh my love for the first time in my life,
My eyes are wide open,
Oh my lover for the first time in my life,
My eyes can see,
I see the wind,
Oh I see the trees,
Everything is clear in my heart,
I see the clouds,
Oh I see the sky,
Everything is clear in our world,
Oh my love for the first time in my life,
My mind is wide open,
Oh my lover for the first time in my life,
My mind can feel,
I feel the sorrow,
Oh I feel dreams,
Everything is clear in my heart,
Everything is clear in our world,
I feel the life,
Oh I feel love.
(C) Written by: John Lennon & Yoko Ono
バッハのどのアリアよりも素晴らしい。僕が言うべきことは何も無い。ジョンのアルバム「イマジン」に収録されているので、機会があったらぜひ耳を傾けて欲しい。
0029 無題
人生はすべて「関係」に始まり「関係」に終わる。
部屋の片隅に坐って、自分自身について瞑想していても何もならない。
人間は独りでは存在できないのである。
人間は、他の人々や事物や観念との関係においてのみ存在しうるのだ。
(クリシュナムルティ)
0028 答えは風の中に
生きるってなんだろう
その意味
その価値とは・・・
答えの無い問いを
問い続けるのが
人生なのかもしれません。
答えは風の中に消え去ったまま、
青春時代のまっただ中で
立ちすくんでいる自分がいます。
いまもあの時あの場所で
誰かを待っている自分に
夢の中で出会います。
そんな自分を
時の無い世界から
連れ戻さなければならない
そんな年齢に
いよいよ
僕も到達したようです。
2010年12月7日火曜日
0027 それは神秘である
「我思う故に我あり」
これを哲学では単に「コギト」と略すことが多い。そして「コギト」「コギト以前」「コギト以後」というように表現する。
おおざっぱに言えばコギト以前のギリシャ哲学の世界観とコギト以後の世界観とはまさに地動説から天動説へのコペルニクス的転換に等しいといえるだろう。
まず世界があってそれ故に自分があるということではなく,それとはまったく反対に、まず自分があるからこそこの世界がある、というのがデカルトの「コギト」であるからだ。
しかしその「コギト」とはなにか、ということがその後の課題となった。
いったいコギトはこの世界の内にあるのか?
論理学的にはノーだ、というのがウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における結果である。
実存主義的には・・・超越という誘惑と戦わなければならない。
サルトルの言う対自存在はこの世界の内にあるのか?
超越的自我はどうなのか?
この世界を語るのに,この世界の外の存在に論拠を求めなければならないというのは論理的一貫性を欠く。
「私は私の世界である」というウィトゲンシュタインの命題は、すなわち、「私は私の世界のすべてを私の世界の内において語りえなければならない」ということだ。
しかし「結論、それは語りえない、それは指し示すことしかできない」というのが論理哲学的結論である。
『だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。』(ウィトゲンシュタイン)
2010年12月2日木曜日
0025 曇りなく見る
見るためには、信念は不要である。それどころか、見るためには信念を持たないことが肝心である。信念を持つという肯定的状態ではなく、否定の状態にあるときにはじめて、あなたは曇りなく見ることができる。(クリシュナムルティ)
0024 空(くう)なる精神
精神を、意見や、あれこれの他人に対する見方、印象、あるいは書物、観念といったもので充満させておいてよいものだろうか。なぜ精神を空しくしておかないのだろうか。精神があっけらかんとしていてはじめて、はっきりとものが見えるようになるのである。(クリシュナムルティ)
2010年11月30日火曜日
0023 クリシュナムルティ
神を愛するという時、それは何を意味するだろうか。
それはあなたの想像力が生み出したものであり、
あなたが神聖にして高貴なものとして考えている
立派な尊敬すべき格好をしたあなた自身を
映し出したものを愛しているということである。
だから「神を愛している」ということは、
全く無意味なことである。
(クリシュナムルティ)
2010年11月28日日曜日
0021 ノルウェイの森・残像
突然ぼくは直子と歩いた秋の草原を思い出す。
どこにあるのか誰も知らないおそろしい野井戸のある優しく穏やかな世界。
直子が死の影を背負った滅び行く美しさを象徴するならば、
緑はたくましく生き抜いてゆく美しいいのちの象徴に感じられる。
死の影を背負った滅び行く美しさ、たくましく生き抜いてゆく美しさ。
あるいは
静謐に満ちた「世界の終わり」、躍動するいのち。
彼女達のような女性は現実には存在しないだろう、たぶん。
そのことは女性のほうがよくわかるだろう。
しかし、ぼくはこの物語、そして彼女たちに触発されて
自らの人生における恋人たちに思いをはせずにはいられない。
自分が本当に愛したひとがだれだったのか、
それを知ったとしても、いまさらどうにもなるものでもない。
そんなものは単なる残像に過ぎないかも知れないじゃないか。
それでもなお、知ることは意味のあることだ、とぼくは信じている。
2010年11月27日土曜日
0020 こころを失うこと
しかしやがては君の心も消えてしまう。心が消えてしまえば喪失感もないし、失望もない。行き場所のない愛もなくなる。生活だけが残る。静かで密やかな生活だけが残る。君は彼女のことを好むだろうし、彼女も君のことを好むだろう。君がそれを望むのなら、それは君のものだ。誰にもそれを奪いとることはできない。
— 村上春樹著「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」第16章より
0019 脳細胞の死
ついていないということと不幸ということとは違う。
理不尽と不条理とは異なる。
そんなことを考えているととても疲れる。
考えるというのはとても大切なことなんだけど、
考えてばかりいると脳細胞が死ぬ。
脳のおなじ部位ばかり酷使すると
その部位の神経細胞が死滅するという研究結果は
じつに衝撃的だった。
2010年11月26日金曜日
0018 抱きしめる
避けることができないものは、抱擁してしまわなければならない。
(シェークスピア)
これまでいちばん好きな季節は秋だった。
過去形なのは最近好みが変わったからだ。
春が好きになり、夏が好きになり
それ以上に冬が好きになったのだ。
現実問題としては冬は大変すぎる季節だ。
明けても暮れても除雪に追われる日々。
スキーという楽しみはあるけれど
そのこととトレードオフしても「赤字」かな。
氷点下20℃まで冷え込み
終日氷点下の日が続く冬という季節は
なにしろいさぎよいから好きだ。
きーんと冷えた凛とした大気に
むしろ命を吹き込まれる想いがする。
雪が降る夜の静けさはたとえようがない。
世界の終わりのように音という音が消える。
自分の呼吸する音で
かろうじて
自分の存在を確信できるばかりだ。
そのようにして
うつろうそれぞれの季節を
ひっしと抱きしめて
生きるぼくなのだ。
(シェークスピア)
これまでいちばん好きな季節は秋だった。
過去形なのは最近好みが変わったからだ。
春が好きになり、夏が好きになり
それ以上に冬が好きになったのだ。
現実問題としては冬は大変すぎる季節だ。
明けても暮れても除雪に追われる日々。
スキーという楽しみはあるけれど
そのこととトレードオフしても「赤字」かな。
氷点下20℃まで冷え込み
終日氷点下の日が続く冬という季節は
なにしろいさぎよいから好きだ。
きーんと冷えた凛とした大気に
むしろ命を吹き込まれる想いがする。
雪が降る夜の静けさはたとえようがない。
世界の終わりのように音という音が消える。
自分の呼吸する音で
かろうじて
自分の存在を確信できるばかりだ。
そのようにして
うつろうそれぞれの季節を
ひっしと抱きしめて
生きるぼくなのだ。
2010年11月25日木曜日
0017 After Dark
前にも書いたけれど、この時間帯が好きだ。深夜からは遠く未明まであとわずか、しかし空はまだ暗い。漆黒の闇が森を支配しているこの短く深い時間。これは村上春樹がアフターダークと呼んだ世界かもしれない、たぶん。
都市のアフターダークと、標高1800mの森のアフターダークとでは、その質やパワーのベクトルが、おそらくはまったく正反対なのだと想う。ここには恐ろしげな影の力も無ければ、魑魅魍魎も跋扈していない。あるのは必死に生きる野生動物たちの、野鳥たちの儚げで力強い気配だけだ。
ここでは人間といえども野生動物の一員に過ぎない。なんの特権も持っていない。ただひとつのいのちある存在として、与えられたいのちを全うしようとしているに過ぎない。人間社会の様々な軋轢や欲望や野心などここでは無意味なのだ。
本来人間は金儲けをするために生まれてくるわけではない。その必要があるから,あるいは強迫観念に駆られて、金を手に入れようと奔走する。同様に、われわれはビジネスに邁進するために生まれてきたのでもない。結論から言ってしまえば、われわれは「なにかを成し遂げるために」生まれてきたわけではない。
それは、我々が成育過程において刷り込まれたもの、あるいは自ら志したものに違いない。
それはそれでいいと想うけれど、そのことと、つまり「成功」と幸福とはなんの関係もないと言うのも事実なのだ。夢や目標の実現は祝福されるべきだが、同時にそれは夢の喪失と目標の消滅を意味する。順調に階段を上り詰めているひとはそのときにそなえて準備しておかなければならない。
それぞれに手に入れたいものを手に入れればいい。一度きりの人生なのだから。
でもそれが唯一の人生でないことも、いまの僕は知っている。
失敗としか言えない人生であったとしても、それもまた価値ある人生なのだと想う。一度でも恋をしたことがあるのならばそれは価値のある人生だ、たとえ片思いだったとしても。一度でもなにかに感動したことがあるのならば、それは十分に生きるに値する人生だったのだ。
そして、ふとした機会に、あるいは瞑想のなかで、静寂に包まれた「自分自身とでもいうべき世界」に浸ることができたならば、もう他に何を望むことがあるだろう。わたしたちひとりひとりが正直に自分自身であることが、この世界の調和を支えているのだから。
都市のアフターダークと、標高1800mの森のアフターダークとでは、その質やパワーのベクトルが、おそらくはまったく正反対なのだと想う。ここには恐ろしげな影の力も無ければ、魑魅魍魎も跋扈していない。あるのは必死に生きる野生動物たちの、野鳥たちの儚げで力強い気配だけだ。
ここでは人間といえども野生動物の一員に過ぎない。なんの特権も持っていない。ただひとつのいのちある存在として、与えられたいのちを全うしようとしているに過ぎない。人間社会の様々な軋轢や欲望や野心などここでは無意味なのだ。
本来人間は金儲けをするために生まれてくるわけではない。その必要があるから,あるいは強迫観念に駆られて、金を手に入れようと奔走する。同様に、われわれはビジネスに邁進するために生まれてきたのでもない。結論から言ってしまえば、われわれは「なにかを成し遂げるために」生まれてきたわけではない。
それは、我々が成育過程において刷り込まれたもの、あるいは自ら志したものに違いない。
それはそれでいいと想うけれど、そのことと、つまり「成功」と幸福とはなんの関係もないと言うのも事実なのだ。夢や目標の実現は祝福されるべきだが、同時にそれは夢の喪失と目標の消滅を意味する。順調に階段を上り詰めているひとはそのときにそなえて準備しておかなければならない。
それぞれに手に入れたいものを手に入れればいい。一度きりの人生なのだから。
でもそれが唯一の人生でないことも、いまの僕は知っている。
失敗としか言えない人生であったとしても、それもまた価値ある人生なのだと想う。一度でも恋をしたことがあるのならばそれは価値のある人生だ、たとえ片思いだったとしても。一度でもなにかに感動したことがあるのならば、それは十分に生きるに値する人生だったのだ。
そして、ふとした機会に、あるいは瞑想のなかで、静寂に包まれた「自分自身とでもいうべき世界」に浸ることができたならば、もう他に何を望むことがあるだろう。わたしたちひとりひとりが正直に自分自身であることが、この世界の調和を支えているのだから。
0016 既知夢
今日も奇妙な夢を見た。その夢を見たから目覚めたのか、目覚める途上でその夢を見たのか、どちらなのかはわからない。これまでの科学的研究を踏まえるならば、後者が正しいのかも知れない。しかし、本人の実感としては前者に近いような気がする。
それは唐突な認識だった。それまで僕は温かく心地よい世界にいた。しかし、あ、これは夢なんだと気づいた瞬間、僕は覚醒の領域に浮かび上がったのだった。いつも通りの連続ドラマ形の夢だった。初回からのストーリーの記憶があり、終了まではまだ回数がある。
収録スタジオに通うように、毎回そこに僕は居るのだ。なにからなにまですべて知っている世界だ。夢の中では僕は若いわりには俳優歴が長い役者なのだ。とてもリアルな世界、とても夢とは想えない現実がそこにはある。なにしろ、論理的不整合がない。支離滅裂な出来事は一切起こらない。
そこまでいくと、いったいこれは「夢」と呼びうるものなのだろうか。
「既知夢(きちむ)」という言葉がある。これはデジャヴ(既知感)… あ、前にもここに来たことがあるとか、前にもまったく同じことがあった、というリアルな感覚の「夢」バージョンという考え方だ。
でもね、学生時代をもっぱら心理学、行動分析学(先日亡くなられた佐藤方哉先生の直弟子)、記憶、精神科学の研究に没頭した身としては、逆にそのように「科学的につじつまあわせ」してはいけないように感じている。
世の中、っていうか、人間の頭脳が創造するこの世界はそんなに単純なものではない。なんでもかんでも「科学」の名の下にあっさりと切り捨てて解決した気になっている輩はじつに底が浅く見える。あ、これは個人的偏見ですが…
まあ、これだけ集中的にこのような夢を見る経験は初めてのことなので、じっくりと研究してみたいと想う。もちろん夢判断なんて独断的なもの不可思議なものではなく、僕なりの「知の構造」をもって、向き合ってみようと想う。
いずれにしてもとても楽しい経験なので、どうか早々に終わってしまうことの無いように祈っている。
それは唐突な認識だった。それまで僕は温かく心地よい世界にいた。しかし、あ、これは夢なんだと気づいた瞬間、僕は覚醒の領域に浮かび上がったのだった。いつも通りの連続ドラマ形の夢だった。初回からのストーリーの記憶があり、終了まではまだ回数がある。
収録スタジオに通うように、毎回そこに僕は居るのだ。なにからなにまですべて知っている世界だ。夢の中では僕は若いわりには俳優歴が長い役者なのだ。とてもリアルな世界、とても夢とは想えない現実がそこにはある。なにしろ、論理的不整合がない。支離滅裂な出来事は一切起こらない。
そこまでいくと、いったいこれは「夢」と呼びうるものなのだろうか。
「既知夢(きちむ)」という言葉がある。これはデジャヴ(既知感)… あ、前にもここに来たことがあるとか、前にもまったく同じことがあった、というリアルな感覚の「夢」バージョンという考え方だ。
でもね、学生時代をもっぱら心理学、行動分析学(先日亡くなられた佐藤方哉先生の直弟子)、記憶、精神科学の研究に没頭した身としては、逆にそのように「科学的につじつまあわせ」してはいけないように感じている。
世の中、っていうか、人間の頭脳が創造するこの世界はそんなに単純なものではない。なんでもかんでも「科学」の名の下にあっさりと切り捨てて解決した気になっている輩はじつに底が浅く見える。あ、これは個人的偏見ですが…
まあ、これだけ集中的にこのような夢を見る経験は初めてのことなので、じっくりと研究してみたいと想う。もちろん夢判断なんて独断的なもの不可思議なものではなく、僕なりの「知の構造」をもって、向き合ってみようと想う。
いずれにしてもとても楽しい経験なので、どうか早々に終わってしまうことの無いように祈っている。
2010年11月24日水曜日
0014 論理哲学的な神
神は存在しない。そもそも神は「存在」ではない。
神は我々が感じそして信じるところの聖なるなにかである。
聖典の中に神はいない。それは神の入れ物ではない。神は信仰するものの心の中に現れる。
宗教の数だけ神(唯一絶対神)があるとするならば、そのこと自体が致命的な矛盾である。
神が唯一無二であるならば、異端者も異教徒も聖戦もない。
神と真実とはなんの関係もない。神と真理とはなんの関係もない。それはまったく別の問題である。神も神への信仰もそれを担保することはない。
あるとき神は真理を指し示すかも知れない。しかしそれは論理命題ではないし、その命題の真理値でもない。
啓示とは我々のインスピレーションに他ならない。どこからどのように生成したかは証明不能である。従って、反対に「神の啓示」という認識を覆すこともできない。
神はなにも語らない。ただ、そこに、あまねく、ある。しかし神は「存在」ではないし、超越者でもない。
神は怒ったり泣いたり笑ったり褒めたり罰したりはしない。神は人間のようではない。人間に似せて神を創ってはならない。
これはわたしが感じ続けてきたきわめて個人的な神の話であり、ある観点からは信仰の話ではあるが宗教の話ではない。
どのような神を感じ、どのように神をあるいは別の名で指し示される聖なるなにかを信仰しあるいは宗教として語り継ぐのか、その自由は万人に保証された基本的人権である。
信仰が信仰である限りにおいて信仰は議論や論理的検証の対象とはなり得ない。ゆえに、わたしは以上の認識について議論しない。信仰について語ることは常に自己参照的であり論理的にはトートロジーにほかならない。
我々に許されたディスクールは「わたしは神を信じる」か「わたしは神を信じない」かのどちらかのみであろう。
(多神教や我が国の八百万の神は、論理哲学的思考における唯一無二の観念的神の多様な側面をメタファーとして階層的に並列的にあるい無差別的に語ったものと考えられる。この議論では除外する。)
2010年11月23日火曜日
0012 しくみ
結局のところ、そんなしくみに
この世の中はなっているみたいだ
でも結局のところひとは最後はひとりぼっちなのだ
その事実からは目をそらすことはできない
ひとは自分自身からは逃れられない
同時にあなたの世界はあなただけのものなのだ
我々はおなじ世界を共有することはできない
それは壮大な夢あるいは幻想に過ぎない
私たちはきわめて個人的な世界に生きそして死んでいく
この世の中はなっているみたいだ
でも結局のところひとは最後はひとりぼっちなのだ
その事実からは目をそらすことはできない
ひとは自分自身からは逃れられない
同時にあなたの世界はあなただけのものなのだ
我々はおなじ世界を共有することはできない
それは壮大な夢あるいは幻想に過ぎない
私たちはきわめて個人的な世界に生きそして死んでいく
0011 語ること
語ることは必要なことだ
語らなければ
あなたは理解されない
ひとはあなたをすぐには知ることができない
時間をかけてそして運が良ければ
あなたの行動を見てひとはあなたを理解する
どちらがよいとはいえない
いずれにしてもそこには意志を持ったあなたがいる
ただ流されるだけのあなたは理解されることはない
理解されたからといってなにかがかわるわけではない
いままでどおりのしんどい人生かも知れない
それでも多少マシな毎日にはなるだろう
語らなければ
あなたは理解されない
ひとはあなたをすぐには知ることができない
時間をかけてそして運が良ければ
あなたの行動を見てひとはあなたを理解する
どちらがよいとはいえない
いずれにしてもそこには意志を持ったあなたがいる
ただ流されるだけのあなたは理解されることはない
理解されたからといってなにかがかわるわけではない
いままでどおりのしんどい人生かも知れない
それでも多少マシな毎日にはなるだろう
0010 論じえないこと
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」
これはウィトゲンシュタインの言葉なのだけれど、ぼくが子供の頃からずうっと思い続けてきたことはこのようなことだったのだ。誰にも理解されることはなかったけれど。
これはウィトゲンシュタインの言葉なのだけれど、ぼくが子供の頃からずうっと思い続けてきたことはこのようなことだったのだ。誰にも理解されることはなかったけれど。
2010年11月22日月曜日
0009 出会い
『世界は成立していることがらの総体である。
世界は事実の総体であり,ものの総体ではない。
(ウィトゲンシュタイン:「論理哲学論考」の冒頭より)』
僕はもっと早くこの著書と出合うべきであった。
できれば大学生時代に。
世界は事実の総体であり,ものの総体ではない。
(ウィトゲンシュタイン:「論理哲学論考」の冒頭より)』
僕はもっと早くこの著書と出合うべきであった。
できれば大学生時代に。
2010年11月21日日曜日
0008 実験心理学
ぼくが大学で専攻したのは「実験心理学(Experimental Psychology)」。
ひとに説明してもなかなか、というか、ほとんど理解してもらえない学問。
要するに、現在の「行動科学」の礎となったものだと言えば多少マシか。
臨床心理学が観察による事例の集積による人文科学だとするならば、
実験心理学は良くコントロールされた実験によるデータ集積・解析による
自然科学としての心理学と言えるだろう。
良く誤解されるのだけれど、心理学は人間心理を研究しているのではない。
それは「文学」の仕事だ。
精神医学が精神病理を研究しているのであって、人間の心を研究している
わけではないのとおなじだ。
ぼくらは人間や動物の頭脳の活動や機能を行動をデータを解析することに
より相関関係さらには関数関係に還元する。
あるいは「行動分析学」として、人間の行動を研究する。
個人的には行動科学としての心理学が対象としているテーマは「知覚」と
「学習」と「記憶」であり、研究対象は「行動」であり、論理実証主義を
大原則としているものだと考えている。
「知覚」と「学習」と「記憶」という脳の活動を統合したところに「認識論」
への自然科学的、論理実証主義的「認識論」がありうるとぼくは考えている。
他の自然科学に比して心理学がより哲学に近いわけではない。
ひとに説明してもなかなか、というか、ほとんど理解してもらえない学問。
要するに、現在の「行動科学」の礎となったものだと言えば多少マシか。
臨床心理学が観察による事例の集積による人文科学だとするならば、
実験心理学は良くコントロールされた実験によるデータ集積・解析による
自然科学としての心理学と言えるだろう。
良く誤解されるのだけれど、心理学は人間心理を研究しているのではない。
それは「文学」の仕事だ。
精神医学が精神病理を研究しているのであって、人間の心を研究している
わけではないのとおなじだ。
ぼくらは人間や動物の頭脳の活動や機能を行動をデータを解析することに
より相関関係さらには関数関係に還元する。
あるいは「行動分析学」として、人間の行動を研究する。
個人的には行動科学としての心理学が対象としているテーマは「知覚」と
「学習」と「記憶」であり、研究対象は「行動」であり、論理実証主義を
大原則としているものだと考えている。
「知覚」と「学習」と「記憶」という脳の活動を統合したところに「認識論」
への自然科学的、論理実証主義的「認識論」がありうるとぼくは考えている。
他の自然科学に比して心理学がより哲学に近いわけではない。
『認識論は心理学の哲学である。(ウィトゲンシュタイン)』
これこそが僕の大学卒業論文のテーマだった。そしていまも。
これこそが僕の大学卒業論文のテーマだった。そしていまも。
0005 アリア
朝早く目が覚めた。早朝にヘッドフォーンで聴くバッハのアリア集。
まだ耳が寝ぼけていてだめだ。
標高1800近い亜高山帯の森はしんと静まりかえっている。
春から夏には野鳥の大合唱で妙なる音楽を聴くことができるのだけれど。
しかたないのだが、ちょっとさびしい。
まだ耳が寝ぼけていてだめだ。
標高1800近い亜高山帯の森はしんと静まりかえっている。
春から夏には野鳥の大合唱で妙なる音楽を聴くことができるのだけれど。
しかたないのだが、ちょっとさびしい。
0004 テンプレート
このブログ公開システムはこれまで使ってきているもののどれよりも軽快で扱いやすいと思う。
しかし、本文の文字に対してタイトルの文字が大きすぎると感じるのはぼくだけではないだろう。
CSSで調整できるのかも知れないけれど、今のところそこまでこだわる気はない。
このブログはぼくのメモ帳代わりといった位置づけだからだ。
トータルなイメージとか、コンテンツで人を引きつけようというもくろみはない、いまのところは。
個人的には利用可能なテンプレートの中ではこれがいちばん気に入っている。
タイトルやコンテンツともマッチしているように思う。
ちょっと文句を言ってみました。
おやすみなさい。
0003 ブログではない「なにか」
ぼくにとってのこのブログのメリットは、日にちや時間から自由だと言うことかも知れない。
これまでのブログは日記形式でしかも原則的に毎日更新してきたから、同時性ということの制約があったからだ。
そのような役割を持たせたブログだから、それはそれで良かったのだけれど、その枠組みの外でもっと自由に書いてみたいという想いがある。
ブログでもなくTwitter でもなく FaceBook でもない「なにか」になれたらいいなあと思っている。
これまでのブログは日記形式でしかも原則的に毎日更新してきたから、同時性ということの制約があったからだ。
そのような役割を持たせたブログだから、それはそれで良かったのだけれど、その枠組みの外でもっと自由に書いてみたいという想いがある。
ブログでもなくTwitter でもなく FaceBook でもない「なにか」になれたらいいなあと思っている。
2010年11月20日土曜日
0002 もう一つの理由(わけ)
このブログを始めたもう一つの理由(わけ)がある。
それはぼくが住んでいる場所の特殊性だ。
標高1800m近い亜高山帯の暮らしを他のブログでは語ることが多いのだが、このブログはその特殊性ではなくむしろ普遍的なものごとについて語りたいと思っている。
仕事からも生活からもフリーに語るとどのようなことになるのか試してみたい。
それはぼくが住んでいる場所の特殊性だ。
標高1800m近い亜高山帯の暮らしを他のブログでは語ることが多いのだが、このブログはその特殊性ではなくむしろ普遍的なものごとについて語りたいと思っている。
仕事からも生活からもフリーに語るとどのようなことになるのか試してみたい。
0001 はじめに
ぼくはこのほかにもいくつかのブログを持っているが、それらのコンテンツは基本的にプライベートではない。
自分のビジネスのツールとしての側面を払拭できないものだ。
従って、常に読者を意識したテーマやオピニオンを書かざるを得ないという制約がある。
このブログはそのような制約から自由になって書き記すことを目的としている。
誰かに何かを伝えたいとか、自分の考えに賛同して欲しいとか、自分を理解して欲しいとか、誰もが抱いているような切実な願望からも自由でありたいとも思っている。
どのようなものになっていくのか、いまのぼくにはわからない。ものごとはしかるべく、なるようになっていくものなのだ。
自分のビジネスのツールとしての側面を払拭できないものだ。
従って、常に読者を意識したテーマやオピニオンを書かざるを得ないという制約がある。
このブログはそのような制約から自由になって書き記すことを目的としている。
誰かに何かを伝えたいとか、自分の考えに賛同して欲しいとか、自分を理解して欲しいとか、誰もが抱いているような切実な願望からも自由でありたいとも思っている。
どのようなものになっていくのか、いまのぼくにはわからない。ものごとはしかるべく、なるようになっていくものなのだ。
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