2010年12月24日金曜日

0033 存在と無

 
 
「存在」の反対概念は「無」ではない。

「存在」の反対概念は「非存在」である。

「無」とは「存在」すべきものの、あるいは、存在していたものの「不在」である。


簡単に言ってしまえば

「彼はいま不在です。つい今し方までここにいたのですが・・・」

というのが「彼の不在」

あるいは

「無」としての「彼の存在」である。


したがって

「無」は「非存在」ではないし

何もかもが灰燼に帰したときに

「無」と表現されるような状況

(それはカオスあるいはカタストロフィーのように感じられる)

ではない。


僕の場合で言うなら

パルは不在なのだ

パルは消失したわけではない。


2008年12月23日(火)

午後1時50分

それまでこの世に存在した愛犬パルが旅立った。


だからパルはいまここにはいない。

それでもなおパルはここにいる。

それは僕らの個人的事実である。


だから、

個人的感慨としては

「無」とは「存在の残像」のようなものだ。

あるいは「存在」の「影」とでも表現すべきなのかも知れない。


そうした意味において

個人的な「無」とは

個人的な「想い出」

あるいは

「忘れ得ぬヴィジョン」

なのかもしれない。


無とは失われたものを思う心なのだ。
 

2010年12月17日金曜日

0032 村上春樹的世界観

 
世界の終り
 
 
村上春樹の長編小説に「ダンス・ダンス・ダンス」という作品があるけれど、いわゆる「僕シリーズ」の最後の作品にあたる。
 
主人公の「僕」が同一人物と考えられることから処女長編「風の歌を聴け」からこの作品までがシリーズと見なされている。
 
いや、少なくとも僕はそう考えている。
 
とても好きな作品群で、すべて初版刊行時に読み、その後も何度も読み返している。20回以上読み返している作品もあるほどだ。
 
そんなことで、そのあとの作品群ないしは単独作品には当初大いなる違和感を覚え、拒絶症状まで出そうになったほどだった。
 
しかし、村上春樹の「世界観」のレベルで捉えると、後期の作品もまた連続性を保っていることに気づいたのだった。
 
それは、
 
この世界ではどんなことでも起こりうるし、あらゆるものが繋がっている。
 
ということだ。
 
なぜならば、この世界は私の極めて個人的な世界だからだ。
 
ウィトゲンシュタインの言葉を借りるならば「私が私の世界である」(ミクロコスモス)ということになるのだろうか。
 
だから「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で「世界が終わる」ということの意味は、「主人公の世界の終わり」を指し示していた。
 
僕自身もまったく同じ考えに行き着いていて、そのように確信している。
 
世界の終わりとは「私の世界の終わり」のことであって、私が死んでも世界は続いてゆく、なにごともなかったかのように。
 
そのような世界観を持った上で読み直すと、見かけや仕掛けは異なるかも知れないけれど後期作品群とりわけ「1Q84」もまたおなじことを語り直していることに気づくのだ。
  

 

2010年12月15日水曜日

0031 知覚

 
われわれは見ようと意識しないものは見ない。「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。
  
 
無意識は我々の内なる大海である。その海面に波立つものが我々が現実と呼ぶところのものであり、上空からそれを見つめているのが我々が自身の意識として認識するところのものである。
 
海面下に何が隠され潜んでいるのか、知るすべはない。
 
まず『人間』があり、そして『意識』があり、しかるのちに『無意識』があるのではない。そうではなくて、まったく反対に、まず『無意識』があり『意識』が生成され『知覚』が成功し『認識』が構成され、そして初めて『人間』が現れるのだ。
 
 
以上、深夜のインスピレーションを書き留める。
 
 

2010年12月10日金曜日

0030 Oh My Love

 
Oh My Love

Oh my love for the first time in my life,
My eyes are wide open,
Oh my lover for the first time in my life,
My eyes can see,

I see the wind,
Oh I see the trees,
Everything is clear in my heart,
I see the clouds,
Oh I see the sky,
Everything is clear in our world,

Oh my love for the first time in my life,
My mind is wide open,
Oh my lover for the first time in my life,
My mind can feel,

I feel the sorrow,
Oh I feel dreams,
Everything is clear in my heart,
Everything is clear in our world,
I feel the life,
Oh I feel love.


(C) Written by: John Lennon & Yoko Ono


バッハのどのアリアよりも素晴らしい。僕が言うべきことは何も無い。ジョンのアルバム「イマジン」に収録されているので、機会があったらぜひ耳を傾けて欲しい。
 
 

0029 無題

 
人生はすべて「関係」に始まり「関係」に終わる。

部屋の片隅に坐って、自分自身について瞑想していても何もならない。

人間は独りでは存在できないのである。

人間は、他の人々や事物や観念との関係においてのみ存在しうるのだ。


(クリシュナムルティ)
 
 

0028 答えは風の中に

 
生きるってなんだろう

その意味

その価値とは・・・


答えの無い問いを

問い続けるのが

人生なのかもしれません。


答えは風の中に消え去ったまま、

青春時代のまっただ中で

立ちすくんでいる自分がいます。


いまもあの時あの場所で

誰かを待っている自分に

夢の中で出会います。


そんな自分を

時の無い世界から

連れ戻さなければならない


そんな年齢に

いよいよ

僕も到達したようです。
 
 

2010年12月7日火曜日

0027 それは神秘である

 
「我思う故に我あり」
 
これを哲学では単に「コギト」と略すことが多い。そして「コギト」「コギト以前」「コギト以後」というように表現する。
 
おおざっぱに言えばコギト以前のギリシャ哲学の世界観とコギト以後の世界観とはまさに地動説から天動説へのコペルニクス的転換に等しいといえるだろう。
 
まず世界があってそれ故に自分があるということではなく,それとはまったく反対に、まず自分があるからこそこの世界がある、というのがデカルトの「コギト」であるからだ。
 
しかしその「コギト」とはなにか、ということがその後の課題となった。
 
いったいコギトはこの世界の内にあるのか?
 
論理学的にはノーだ、というのがウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における結果である。
 
実存主義的には・・・超越という誘惑と戦わなければならない。
 
サルトルの言う対自存在はこの世界の内にあるのか?
 
超越的自我はどうなのか?
 
この世界を語るのに,この世界の外の存在に論拠を求めなければならないというのは論理的一貫性を欠く。
 
「私は私の世界である」というウィトゲンシュタインの命題は、すなわち、「私は私の世界のすべてを私の世界の内において語りえなければならない」ということだ。
 
しかし「結論、それは語りえない、それは指し示すことしかできない」というのが論理哲学的結論である。
 
『だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。』(ウィトゲンシュタイン)
 
 

2010年12月2日木曜日

0026 変化できること

 
最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るのでもない。唯一生き残るのは変化できるものである。(英生物学者: Charles Robert Darwin)
 
 

0025 曇りなく見る

 
見るためには、信念は不要である。それどころか、見るためには信念を持たないことが肝心である。信念を持つという肯定的状態ではなく、否定の状態にあるときにはじめて、あなたは曇りなく見ることができる。(クリシュナムルティ)
 
 

0024 空(くう)なる精神

 
精神を、意見や、あれこれの他人に対する見方、印象、あるいは書物、観念といったもので充満させておいてよいものだろうか。なぜ精神を空しくしておかないのだろうか。精神があっけらかんとしていてはじめて、はっきりとものが見えるようになるのである。(クリシュナムルティ)