2010年11月24日水曜日

0015 おとな

大人ぶるのはやめよう、
 
大人しいのもやめよう、
 
そして時には大人であろう、
 
そう思う。

0014 論理哲学的な神

 
神は存在しない。そもそも神は「存在」ではない。
 
神は我々が感じそして信じるところの聖なるなにかである。
 
聖典の中に神はいない。それは神の入れ物ではない。神は信仰するものの心の中に現れる。
 
宗教の数だけ神(唯一絶対神)があるとするならば、そのこと自体が致命的な矛盾である。
 
神が唯一無二であるならば、異端者も異教徒も聖戦もない。
 
神と真実とはなんの関係もない。神と真理とはなんの関係もない。それはまったく別の問題である。神も神への信仰もそれを担保することはない。
 
あるとき神は真理を指し示すかも知れない。しかしそれは論理命題ではないし、その命題の真理値でもない。
 
啓示とは我々のインスピレーションに他ならない。どこからどのように生成したかは証明不能である。従って、反対に「神の啓示」という認識を覆すこともできない。
 
神はなにも語らない。ただ、そこに、あまねく、ある。しかし神は「存在」ではないし、超越者でもない。
神は怒ったり泣いたり笑ったり褒めたり罰したりはしない。神は人間のようではない。人間に似せて神を創ってはならない。

 
これはわたしが感じ続けてきたきわめて個人的な神の話であり、ある観点からは信仰の話ではあるが宗教の話ではない。
 
どのような神を感じ、どのように神をあるいは別の名で指し示される聖なるなにかを信仰しあるいは宗教として語り継ぐのか、その自由は万人に保証された基本的人権である。
 
信仰が信仰である限りにおいて信仰は議論や論理的検証の対象とはなり得ない。ゆえに、わたしは以上の認識について議論しない。信仰について語ることは常に自己参照的であり論理的にはトートロジーにほかならない。
 
我々に許されたディスクールは「わたしは神を信じる」か「わたしは神を信じない」かのどちらかのみであろう。
 
 
(多神教や我が国の八百万の神は、論理哲学的思考における唯一無二の観念的神の多様な側面をメタファーとして階層的に並列的にあるい無差別的に語ったものと考えられる。この議論では除外する。)
 

0013 正義

正義などという言葉を軽々しく用いてはならない。そんなもの無いんだから。正義とは強いものが自らを神となして弱いものに与える残虐な罰である。

0013 孤独

ぼくは孤独には耐えることができると思う。

しかし、孤立に耐えて生きていくことができるかどうか、
それはわからない。

ひとはそこまで強くはないと思う、たぶん。