2012年7月3日火曜日

ニッコウキスゲが咲き始めています

 
   
風景
 
 
かつては息もできないほど大量のタンポポの綿毛が飛び交う季節だったのだけれど、必死に駆除したおかげで数年前からそのような現象を見なくなった。外来種の巨大で強靱なタンポポを駆除するのは至難の業だったが、とうとう優位に立てたようだ。
 
その結果、可憐な在来種のタンポポや、駆逐されてしまっていた小さな山野草がよく見られるようになってきている。少しだけ本来の植生に戻すことができたのかもしれない。地権者の許可を得て間伐、枝打ち、下草狩りをペンション村を挙げて行ったおかげで、ピラタスの森もカオス化する直前で踏みとどまっている。
 
人の手の入らない森は文字通りのジャングルと化してしまうのだ。混沌とした醜悪とも見える生存競争の姿を我々にさらしてしまうのだ。このことは森に暮らしてみないとおそらくは決して知ることのない事実かも知れない。人の手の入らない自然には我々の抱く「風景」とか「景色」というものは存在しない。
 
それらは自然によって触発された結果としての、われわれの心象風景だからだ。自然を美しいと感じるためには、我々の内面に美しい自然が存在しなければならないのだ。
 
美を感じる心がなければこの世界に美など存在し得ない。
  
 
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m

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2012年7月2日月曜日

ただ知りたいだけ、きわめて個人的に


このブログは記事のトーンが暗いだろうか。たまに気にしてはいるのだけれど、これがわたしの志向性であり個性であり世界観なのでどうしようもない。
 
この世界にはわれわれが想像する以上にじつに様々な人間がいて、じつに多様な世界観のもとに生きているのだ、たぶん。
 
わたしに人生のテーマがあるのかと問われれば、「この世界の成り立ちを少しでも理解したいのだ」と答えるだろう。まあ、誰もそんなことは質問しないのだけれど。
 
べつに大それたことじゃ無い。それにそんなことを知ったからといって何か得をするとか人生が明るく楽しくなるというものでも無いし。ただ知りたいだけ、きわめて個人的に。
 
ペンションの経営者(通常「オーナー」と呼ばれるのだけれど)としてはどうよ?・・・という観点からすれば、あまり得策じゃ無いよなー,こんなことばかり書いているのは。
 
・・・とは思う。
 
でもね、ペンション・オーナーとしての実際のわたしは、ここに(=このブログの世界のことね)いるわたしとはだいぶ違うのだ。びっくりするほど違うとは言えないけれど、がっかりするていどには異なっているかも知れない。
 
誰だってそうでしょ、程度の差こそあれ。
 
ここに記されていることはわたしの内面の想い、あるいは精神世界、あるいは世界観なのであって、実際のわたしのことでは無いのね。
 
もちろん、わたしという人間を構成している最も核心的な部分かも知れないのだけれど、それは明示的では無く、「暗示的」なものとしてのことだ。
 
そうした意味においては、いまここでこのように語っているわたしは「メタファー・としての・わたし」だということが出来るかも知れない。
 
さて、これでしっかりと煙に巻くことが出来ただろうか、ちょっと心配。
  
 
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m

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2012年6月23日土曜日

霧ヶ峰のレンゲツツジ大群生が見頃


 
霧ヶ峰のレンゲツツジが見頃です
 
 
エゾハルゼミがかしましく鳴いています。山麓の街ではかなり気温が上がっているようですが、ここは陽が差したときだけ日向はからっと初夏の気候に変わるのですが、雲がかかるとしっとりとした気持ちの良い涼しさが支配します。雨の気配は全くなく、湿度もまったく感じません。サラサラと風が流れていきます。
 
野鳥も負けじと盛んにさえずっています。アカハラ、ホトトギス、ウグイス、オオルリ・・・数えだしたらきりが無いほどの数と種類です。森はすっかり新緑に覆われ、陽光の照り返しが透明感のあるグリーンで硝子張りのラウンジの内部を染め上げています。
 
蓼科は昔から湿度が低いことで知られた避暑地なので、梅雨時でもじめじめしません。空気はいつもサラサラしていてとても過ごしやすいところです。とくにわたしたちの暮らしている北八ヶ岳中腹の別荘地は水はけの良い土地なので、なおさらその恩恵にあずかっています。
 
クルマで2,30分の霧ヶ峰や八島ヶ原からはレンゲツツジの大群生が見ごろに入ったというニュースが入ってきています。見ごろはいまから6月末か7月上旬までとのことです。レンゲツツジの大群生の風景はなんとも幽玄で一度見たらやみつきになります。わたしもそのひとりです。
 
レンゲツツジはからっと晴れた日よりも、霧がかかるほどの曇天のほうが風情があります。本来の美しさを体験したいなら曇りか小雨の日がおすすめです。一方、7月中旬から見ごろのニッコウキスゲは晴れの日のほうがいいかもしれません。個人的にはニッコウキスゲも霧がかかっている方が好きなのですけれど。
 
 
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m
   
 
☆たてしなラヂヲ☆
 
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2012年6月22日金曜日

瞑想するパル君(シベリアンハスキー・雄)



必ず毎日更新することを至上命令として、というか、それだけを唯一の目標としてこのブログを16年書き続けてきました。しかし、13年たった頃だったか、いいかげん息切れしてきてしまい、更新間隔を変えたりもました。いまは毎日更新に戻ってはいるけれど。

13年続けてみて、なにはともあれ、「継続は力なり」ということを改めて実感しました。

そしていま17年目です。長く書いていればいいということはまったくないのですが、それなりの想いの蓄積が残るというのは個人的にはとても良いことなのかもしれないかな・・・などと感じてはいます。

同時に、あまりにもネット上にいる時間が長すぎたのかも知れない。もっとリアルな日常を過ごす時間を増やしたい、そうも思うのです。おりしも最近のブログ公開システム(Movable Type、Word Press)やSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の進歩によって、大幅に更新が楽になってその時間がようやく取れるようになってきました。

某元首相の「構造改革無くして景気回復無し」という欺瞞的にわかりやすいスローガンは大嫌いな言葉ですが、あえてそれになぞらえていうならば「インプット無くしてアウトプット無し」というのがいまの私の切実な体感です。

象徴的に言うなら、もっと本を読み,思索を重ねたい。もっとリアルな自然と向き合い語り合いたい。そしてそれらのリアルな体験を心地よく明晰な文章で語りたい。そういうことかも知れません。

2008年の暮れに愛犬のパル(シベリアンハスキー・雄)がこの世を去って以来、夕暮れ時や夜間に北八ヶ岳中腹・標高1700mのこのピラタスの丘を散歩する機会も減りました。特に夜間は、犬をつれずにふらふらしているとあらぬ疑いをかけられちゃいますから。

パルがいるときには、深夜だろうが早朝だろうが、台風だろうが吹雪だろうが全天候対応のパル君につきあって散歩に出かけていましたから、それはそれは貴重な体験をすることができたのです。

パル君は僕らとこの雄大な自然との間に立つべく、とても優秀なインタープリターとしてやって来たような気がしています。その彼を失って、私はこの自然との(もっというなら、この世界との)距離感が分からなくなってしまったような気がします。

そのことを別にしても、私はだんだん文章を書けなくなってきています。それはスタイルの問題ではなく,技術の問題でもなく、テーマや内容や感動や想いに属する部分なので、これはけっこう重症です。

from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m

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2012年6月21日木曜日

新緑の森・風の音

新緑の森・風の音 by Tateshina Radio
 
新緑の森・風の音, a photo by Tateshina Radio on Flickr.
台風一過の新緑の森、風の音…:写真クリックで拡大してご覧いただけます。

信州蓼科高原は新緑の中、今週末ころにはレンゲツツジ、ミツバツツジ、ヤマツツジの咲き誇る季節になりました。つぎからつぎへと様々な山野草がわたしたちの目を楽しませてくれます。

写真集「我が美しき蓼科」より

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補足



前回の記事はいささか長く、

そして内容的にも難解だったかも知れない。

しかし、

瞑想によってその世界を体験したものにとっては、

単なる情景描写にすぎない。

いずれにしても

「語り得ぬ世界」を語るという矛盾を承知で書かざるを得ない。

それはしかたのないことなのだ。

同じことは真の宗教家にとっても同じ状況だろう。

僕は宗教家では無いので実のところどうなのかはわからない。

しかし少なくとも聖書やコーランや経に記されていることは

それを伝えるための寓話やメタファーやイメージなのだ。

しかし神も仏も自ら語らないし聖典や経を記さない。

「神が存在する」という命題はこの世界に存在しうるが、

「神」がこの世界の内に存在することは不可能である。

なぜなら

もし神がこの世界の内に在るならば、

神はこの世界と同時に自らをも創造したことになるからだ。


from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m

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2012年6月20日水曜日

その想いを手放すのだ

庭の花と蝶 by Tateshina Radio
 
庭の花と蝶, a photo by Tateshina Radio on Flickr.


忘れてしまいたいことも、手放したくない想いも、いつのまにか霧の彼方に消えてしまっていた。これでいいのかも知れない。インドの賢者が言うように「それを手放すこと」が大切なのかも知れない。手放すことによって「いま、ここに、ある・自分」を手に入れることができる。
 
僕は瞑想によってそのことを学んだ。さまざまな想いがつねに我々の心を満たしている。瞑想に入ると、さらに多くの想いが沸き上がり怒濤のように押し寄せてくる。「無我の境地」をめざせばめざすほどその勢いは増すばかりだ。しかし、それは我々がそれらの想いをしっかりと引き止めているからなのだ。無我の境地をめざす想いもそれらのうちのひとつにすぎない。
 
その想いを手放すのだ。それこそが魔法のキーワードだ。想いを手放すことによって我々は真の自由を手に入れることになる。思考のよどみから大いなる大河の流れに合流することができるのだ。瞑想によって我々が到達するのは「無我の境地」ではなく、じつは「空(くう)の世界」だった。そのことを瞑想は教えてくれる。
 
空(くう)を概念として語ることはほとんど不可能だ。あらゆる概念を超越して存在が充満する世界でありながら認識においてはなにもない世界。すべてが在り、かつ、なにも無い世界。それが「空(くう)」だ。般若心経が語る世界はまさにそのような世界だ。
 
そこにおいては自分は世界そのものであり、世界は自分そのものである。自他の区別は存在せず、自分の内も外もない。それは「在る」ということもなく、「在らぬ」ということもない。「無い」ということもなく、「無くは無い」ということもない。
 
というようなわけで、般若心経が難解にみえるのは、そのように語りえぬ世界を語り尽くしているからなのだ。そうした意味において、般若心経の講義を聞いたり解説本を読むことにはあまり意味がない。語りえぬことを言葉で学んだり理解することはそれ自体が矛盾を孕んでいるからだ。
 
般若心経の描く世界あるいは境地は瞑想によってのみ体験することができる。座禅や祈りによる超越体験も同様の世界に至るのかも知れないけれど。いずれにしても言葉によってそれに至ることは不可能と断言できる。わかったような顔をして般若心経を語る人物を、だから、僕は信用できない。肝心なのは彼がその世界を自ら日常的に体験しているかどうかということだ。もしそうならば、かれは解説や講義などしないはずだ。それが語りえぬことだと知っているからだ。
 
超越的存在としての「神」もまた同様に「語りえぬ」。ぼくらは「神」を指し示すことすらかなわない。だから、「神」についてもっともらしく語る人間を僕は信じない。人間が語り聞かせる神を僕は信じない。僕が、いわゆる、無宗教なのは、そのような理由による。宗教上の神は人間が構築した神だからだ。
 
神は唯一無二にして「すべて」であるからして、語ることも指し示すこともできない。また、語られることも要しない。神は個別存在ではないから擬人化することはできないし、したがって我々に語りかけることもあり得ない。何かの意思を示すことも無く、我々を支持したり導いたりするということも無い。
 
神は聖書を書かないし語らない。神はコーランを書かないし語らない。仏は仏典を書かないし語らない。神も仏も奇跡など起こさない。なぜならばその必要がないからだ。神も仏も自らの存在を奇跡によって証明する必要がないからだ。神仏は超越的に存在する。そのことは我々のDNAに原初より刻み込まれている。
 
宗教は語りえぬ神仏との交流を試みる人為的なメタファーに過ぎない。語りえぬ真実を語ることは困難なのだ。
 
 
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m

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2012年6月19日火曜日

蓼科山よりも大きなはぐれ雲




ピラタスの丘から山麓に下り中央道諏訪ICから岡谷JCT経由で長野道に入り松本に向かうと、トンネルを2つ抜けたあたりから景色はしだいに開けてくる。諏訪盆地から松本盆地に入り平野のような景色の向こうに穂高連峰を望むことになる。反対側の右方向には霧ヶ峰から美ヶ原に至る山並みが間近に連なっている。
 
このコースを逆にたどるとあたかも平野部から山岳部に入るような感覚で、ああ信州に来たのだなあと実感できる。じっさいのところ、松本から諏訪に向かう道路は上り坂なのだ。僕らがこちらに移住する前によくキャンプに行ったのだが、キャンプ場が近づくにつれてちょうどこんなふうに風景が変化して、それにつれて気分が高揚していったのを思い出す。
 
この地に移住して18年を経たいまでも、遠方に出かけて帰ってくるとき、八ケ岳を望み諏訪盆地に近づくにつれて同様の高揚感を味わうことに変わりはない。やはりここは僕の「居場所」なのだと、そのたびに確信するのだ。
 
北八ケ岳の中腹、標高1700mに暮らすことの不思議。しかし、確かにいま僕はここにいる。ここでは「いま、ここに、ある」ことを持続することができる。それは生まれてから40数年間僕にできなかったことだった。僕は自分の「居場所」を求めてさまよい続けていた。
 
ここが僕の居場所だと確信したとき、ここで起きる物事を書き記しておきたいと思った。それから16年。
 
それにつけても物語ることが苦手だ、その技能も才能もない。元来ストーリーテラーとしての資質に欠けるのだ、残念ながら。だから僕は小説家にはなれない、まねごとすらできない。どれほど語るべきことを持っていたとしても、「物語」を構築できないのだ。ただ語り続けることしかできない。
 
この日記はどこにもたどり着かない。どこにも向かっていないからだ。誰にも行き着かない。誰にも語りかけていないからだ。ひとりごとのようなものだ。あえて言うならば、この日記を書き続けることそのものが「孤独な物語」なのかも知れない。
 
1枚の紙に書きつけた手紙を小さな瓶に詰めて海に流すような気分だ。僕の言葉たちは漂っている。広大なウェブの世界を。やがて誰かに拾い上げられ、その栓が抜かれ読まれるときを待ちながら。
 
 
※ボトルメール(bottle mail)とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/ボトルメール (ウイキペディア)
 
 
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m

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2012年6月18日月曜日

野鳥の声に耳を澄ますパル(シベリアンハスキー))

 ここのところ毎朝未明に歌い始めるウグイスの声で目が覚める。
 
 なにしろうちのペンションの庭に住みついているものだから窓のすぐ外で大きな声がするわけだ。
 
 心地よい歌声なのだが、些細なことを言わせてもらえれば、歌が下手なのだ。まあ、起床前のまどろみの中で聴きながらリラックスして気持ちよく起きられることに変わりはないのだけれど。
 
 このウグイス君の歌声は「ホォオオ・オチェチョ」というふうに聞こえる。
 
 普通のウグイスは文字通り「ホォオオオ・ホケキョ」と鳴くのだが、このウグイス君はかたくなにこのフレーズにこだわっているように聞こえる。
 
 プログレッシヴなのかポップなのかパンクなのか知らないけれど、僕の耳には風変わりに聞こえるのだ。始めて耳にするひとにはこの違いはわからない程度かも知れない、たぶん。
 
 僕はジャズ・フリークなのだけれど、音楽に関してはジャンルにこだわらず公正に評価する耳を持っているつもりだ。
 
 でも、このウグイス君はかなり異色の存在だ。ちょっと評価が分かれるところだろう。それにひきかえ今年のホトトギスとアカハラは歌がうまく、しかもなんとも美声だ。
 
 聞きほれてしまう。
 
 
 今日は朝から曇り空で陽射しはない。ついさきほど小雨がぱらついたがいまは再び曇天に戻っている。
 
 午後3時、北八ヶ岳の中腹、標高1700mにあるピラタスの丘は静けさに満ちている。僕はラウンジの吹き抜け部分に座ってぼーっとの景色を眺めている。鳥の声もよく聞こえるし、居ながらにして空まで見える。
 
 これが至福の時なのだ、じつは。
 
 
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m

2012年6月17日日曜日

霧ヶ峰のレンゲツツジ群生

 
 
信州蓼科高原は新緑の中、今週末ころにはレンゲツツジ、ミツバツツジ、ヤマツツジの咲き誇る季節になりました。つぎからつぎへと様々な山野草がわたしたちの目を楽しませてくれます。
 
写真集「我が美しき蓼科」より

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2012年6月16日土曜日

北八ヶ岳ロープウエイ(旧・ピラタス蓼科ロープウエイ)

 
北八ヶ岳ロープウエイは、八ヶ岳の北端に位置する北横岳と縞枯山の間に架かり、山麓駅(標高1,771m) から山頂駅(同2,237m)までの高低差466mを約7分で駆け上がります。その間、刻々と変わる山岳風景 を目の前に眺める空の旅は迫力満点。降り立つ山頂には、ハイマツやコメツガなど溶岩台地を覆う低木や 高山植物が群生する坪庭自然園が広がります。四季折々の魅力にあふれた北八ヶ岳には、ゆっくり歩いて みたい大自然があふれています。
 
★写真クリックで拡大します。
 
※この写真は、(株)北八ヶ岳リゾート様の許諾を得て転載しております。
 
 

2012年6月15日金曜日

谷に架かる虹

谷に架かる虹 by Tateshina Radio
谷に架かる虹, a photo by Tateshina Radio on Flickr.


 
標高1700m、谷に架かる虹を見下ろす… :写真クリックで拡大します。

信州蓼科高原は新緑の中、今週末ころにはレンゲツツジ、ミツバツツジ、ヤマツツジの咲き誇る季節になります。つぎからつぎへと様々な山野草がわたしたちの目を楽しませてくれます。
 
写真集「我が美しき蓼科」より

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谷に架かる虹
   
  
我が家でもあるペンション・サンセットの目の前には
 
深くて大きな谷があります。
 
 
こちら側は北八ヶ岳の北横岳(2470m)の中腹(1750m)であり、
 
向こう側は
 
白樺湖との間を隔ててそびえる八子ヶ峰(1830m)から
 
蓼科山(2530m)に連なる山塊になっています。
 

写真の虹はその深い谷に懸かったものです。
 
 
雨の日や特に雨上がりには
 
その谷の深い森から
 
大量の水蒸気が立ちのぼり
 
見る間に雲を形作る様が見られます。
 
その様子はじつに幽玄な情景です。
 
そんな世界にわたしたちは暮らしています。
 
 
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m
   
 
☆たてしなラヂヲ☆
 
http://twitter.com/tateshina_radio
 
https://www.facebook.com/masayuki.kano1 
  
  

★★★


【蓼科高原観光情報】
 
蓼科は新緑の季節!湖は雪解け水を湛え、ほんとうに爽やかな季節になりました!抜群の眺望とほどよいコーナーが続く蓼科高原ドライブはきっと至福のひとときになります!
 
この季節の山の気候・天気は気まぐれです。山に登る方は完全な冬山装備で!そして観光やドライブのお客さまも含めて、陽射しはとても熱く強いですから日焼け止め対策を男女問わすお忘れ無く!(o^^o)
   
ペンション・サンセットはロープウエイ隣のペンション村にあるのでアクセス抜群です。しかもロープウエイ前に完全舗装された800台収容の無料大駐車場があるので、ペンション・サンセットにお泊まりなら、「満車で駐車できない!」なんて心配はありません。

ロープウエイの大駐車場までは徒歩でも車クルマでも5分です。
 
北八ヶ岳ロープウエイのHP:http://www.kitayatu.jp/index.php

※4月から「ピラタス蓼科ロープウエイ」から名称変更になりました。
 
    
● ペンションサンセットのHP:http://www.p-sunset.com/
 
●期間限定で1泊2食付き7500円(大人2名様1室ご利用の場合)からの特別料金キャンペーン実施中です
 
● 楽天トラベルのお客様の声(公開アンケート)
  
お電話でもホームページからのご予約でも料金は同じです。当日予約でのご利用大歓迎です。
ご予約専用電話:0266-67-5123 です。

 

2012年6月13日水曜日

雲海の中の新緑風景

早朝、ラウンジから庭を眺める、森を眺め、その向こうの蓼科山、さらに向こうの中央アルプスを眺める。
 
美しい風景だ。
 
しかしこの景色には、少なくともここから100m以内には多少なりとも僕の手が入っている。僕の「美意識」が入っている。もしそうでなかったら、この「おさまり」の良い風景はなかったはずだ。
 
木を切り、枝打ちをして、雑草を刈り、植生を選別し、庭を整え、そしてできあがったのがこの風景だ。
 
そうした意味において、この風景は僕らの営みの成果でもある。このペンション村に住人がひとりもいなくて、だれも手を入れなかったならば、ペンション村の風景は混沌(こんとん)とした植生のなすがままになってしまうだろう。
 
それは人間の目には決して美しくは映らないだろう。
 
あるひとにとっては「あるがままの自然」と映るかも知れない。またあるひとには「荒々しい」そして「おどろおどろしい」自然の営みと感じられるかも知れない。別のひとにとっては単なる「荒れ果てた自然」として認識されるかも知れない。
 
原始の景観はおそらく獰猛(どうもう)なのだ。
 
それを美しいと感じるかどうかは観るひとの主観である。感性だけに限って言うならば、それは直感の問題なのかも知れない。またあるひとにとっては「価値観」の問題なのかも知れない。
 
いずれにしても、客観的な風景など無い、アプリオリ(先験的)に与えられた風景など無い。
 
それにしても、(結果としての)蓼科の風景はひとにやさしい。北八ヶ岳も同様だ。軽井沢のようなひとの手の行き届いた自然の心地よさとはある意味対極にある、自然のあるがままの心地よさが蓼科にはある。それはなぜだろうといつも考えているのだけれど、いまだにその理由がわからないでいる。
 
 
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m