2010年12月7日火曜日

0027 それは神秘である

 
「我思う故に我あり」
 
これを哲学では単に「コギト」と略すことが多い。そして「コギト」「コギト以前」「コギト以後」というように表現する。
 
おおざっぱに言えばコギト以前のギリシャ哲学の世界観とコギト以後の世界観とはまさに地動説から天動説へのコペルニクス的転換に等しいといえるだろう。
 
まず世界があってそれ故に自分があるということではなく,それとはまったく反対に、まず自分があるからこそこの世界がある、というのがデカルトの「コギト」であるからだ。
 
しかしその「コギト」とはなにか、ということがその後の課題となった。
 
いったいコギトはこの世界の内にあるのか?
 
論理学的にはノーだ、というのがウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における結果である。
 
実存主義的には・・・超越という誘惑と戦わなければならない。
 
サルトルの言う対自存在はこの世界の内にあるのか?
 
超越的自我はどうなのか?
 
この世界を語るのに,この世界の外の存在に論拠を求めなければならないというのは論理的一貫性を欠く。
 
「私は私の世界である」というウィトゲンシュタインの命題は、すなわち、「私は私の世界のすべてを私の世界の内において語りえなければならない」ということだ。
 
しかし「結論、それは語りえない、それは指し示すことしかできない」というのが論理哲学的結論である。
 
『だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。』(ウィトゲンシュタイン)
 
 

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