2012年6月20日水曜日
その想いを手放すのだ
忘れてしまいたいことも、手放したくない想いも、いつのまにか霧の彼方に消えてしまっていた。これでいいのかも知れない。インドの賢者が言うように「それを手放すこと」が大切なのかも知れない。手放すことによって「いま、ここに、ある・自分」を手に入れることができる。
僕は瞑想によってそのことを学んだ。さまざまな想いがつねに我々の心を満たしている。瞑想に入ると、さらに多くの想いが沸き上がり怒濤のように押し寄せてくる。「無我の境地」をめざせばめざすほどその勢いは増すばかりだ。しかし、それは我々がそれらの想いをしっかりと引き止めているからなのだ。無我の境地をめざす想いもそれらのうちのひとつにすぎない。
その想いを手放すのだ。それこそが魔法のキーワードだ。想いを手放すことによって我々は真の自由を手に入れることになる。思考のよどみから大いなる大河の流れに合流することができるのだ。瞑想によって我々が到達するのは「無我の境地」ではなく、じつは「空(くう)の世界」だった。そのことを瞑想は教えてくれる。
空(くう)を概念として語ることはほとんど不可能だ。あらゆる概念を超越して存在が充満する世界でありながら認識においてはなにもない世界。すべてが在り、かつ、なにも無い世界。それが「空(くう)」だ。般若心経が語る世界はまさにそのような世界だ。
そこにおいては自分は世界そのものであり、世界は自分そのものである。自他の区別は存在せず、自分の内も外もない。それは「在る」ということもなく、「在らぬ」ということもない。「無い」ということもなく、「無くは無い」ということもない。
というようなわけで、般若心経が難解にみえるのは、そのように語りえぬ世界を語り尽くしているからなのだ。そうした意味において、般若心経の講義を聞いたり解説本を読むことにはあまり意味がない。語りえぬことを言葉で学んだり理解することはそれ自体が矛盾を孕んでいるからだ。
般若心経の描く世界あるいは境地は瞑想によってのみ体験することができる。座禅や祈りによる超越体験も同様の世界に至るのかも知れないけれど。いずれにしても言葉によってそれに至ることは不可能と断言できる。わかったような顔をして般若心経を語る人物を、だから、僕は信用できない。肝心なのは彼がその世界を自ら日常的に体験しているかどうかということだ。もしそうならば、かれは解説や講義などしないはずだ。それが語りえぬことだと知っているからだ。
超越的存在としての「神」もまた同様に「語りえぬ」。ぼくらは「神」を指し示すことすらかなわない。だから、「神」についてもっともらしく語る人間を僕は信じない。人間が語り聞かせる神を僕は信じない。僕が、いわゆる、無宗教なのは、そのような理由による。宗教上の神は人間が構築した神だからだ。
神は唯一無二にして「すべて」であるからして、語ることも指し示すこともできない。また、語られることも要しない。神は個別存在ではないから擬人化することはできないし、したがって我々に語りかけることもあり得ない。何かの意思を示すことも無く、我々を支持したり導いたりするということも無い。
神は聖書を書かないし語らない。神はコーランを書かないし語らない。仏は仏典を書かないし語らない。神も仏も奇跡など起こさない。なぜならばその必要がないからだ。神も仏も自らの存在を奇跡によって証明する必要がないからだ。神仏は超越的に存在する。そのことは我々のDNAに原初より刻み込まれている。
宗教は語りえぬ神仏との交流を試みる人為的なメタファーに過ぎない。語りえぬ真実を語ることは困難なのだ。
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m
http://www.p-sunset.com/
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