早朝、ラウンジから庭を眺める、森を眺め、その向こうの蓼科山、さらに向こうの中央アルプスを眺める。
美しい風景だ。
しかしこの景色には、少なくともここから100m以内には多少なりとも僕の手が入っている。僕の「美意識」が入っている。もしそうでなかったら、この「おさまり」の良い風景はなかったはずだ。
木を切り、枝打ちをして、雑草を刈り、植生を選別し、庭を整え、そしてできあがったのがこの風景だ。
そうした意味において、この風景は僕らの営みの成果でもある。このペンション村に住人がひとりもいなくて、だれも手を入れなかったならば、ペンション村の風景は混沌(こんとん)とした植生のなすがままになってしまうだろう。
それは人間の目には決して美しくは映らないだろう。
あるひとにとっては「あるがままの自然」と映るかも知れない。またあるひとには「荒々しい」そして「おどろおどろしい」自然の営みと感じられるかも知れない。別のひとにとっては単なる「荒れ果てた自然」として認識されるかも知れない。
原始の景観はおそらく獰猛(どうもう)なのだ。
それを美しいと感じるかどうかは観るひとの主観である。感性だけに限って言うならば、それは直感の問題なのかも知れない。またあるひとにとっては「価値観」の問題なのかも知れない。
いずれにしても、客観的な風景など無い、アプリオリ(先験的)に与えられた風景など無い。
それにしても、(結果としての)蓼科の風景はひとにやさしい。北八ヶ岳も同様だ。軽井沢のようなひとの手の行き届いた自然の心地よさとはある意味対極にある、自然のあるがままの心地よさが蓼科にはある。それはなぜだろうといつも考えているのだけれど、いまだにその理由がわからないでいる。
from 信州蓼科高原ピラタスの丘・標高1700m
2012年6月13日水曜日
雲海の中の新緑風景
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